館長のつぶやき34~佐藤春夫の少年時代(34)

初恋の人、大前俊子との出会い(三)
春夫の両親が熊野病院の3号室への入室を禁止したのは、肺結核の感染を恐れての事でした。最初は肋膜炎であったものが、やがて肺結核に進行したものだろうと、春夫は推測していますが、「忘れ難き人々」(「回想」大正15年1月「新潮」)の1人であったのは、その妹の存在も大きな意味を持っていたのは勿論でしたが、「知らず識らずのうちに、読書の習慣を与へたその小さな病人」でもあったことです。巌谷小波が編した「日本昔話」や「世界お伽話」のシリーズなどが、妹の風呂敷包みで連日届けられていました。

俊子の兄大前十郎は、明治20年生まれで次男、明治39年3月新宮中学第1期生、29名のひとりとして卒業しています。新宮中学1回生は、既に述べたように1高はじめ続々と有名上級学校へ進学したり、渡米したりして、その優秀さはいまでも土地の語り草になっています。十郎が熊野病院に入院していたのは、春夫が新宮中学に入学して間もなくの頃で、十郎は3年生に在籍した折です。

「会報」6号に掲載された新宮中学時代の大前十郎

卒業後、十郎は勉学のため上京していますが、志半ばで結核が再発、悪化、兵庫県の飾磨郡視学をしていた江田重雄(俊子の10歳上の姉しづの嫁ぎ先)の居宅、播州の印南郡曽根町(現高砂市)で療養しています。しかしその甲斐もなく卒業1年にも満たない12月中旬死去しました。時は日露戦後、戦勝気分があふれていて、しづの次男江田秀郎は離れで静養していた叔父に軍艦が戦争している図を毛筆で描いてもらった記憶があります。母しづには離れに行ってはいけないとは一度も言われなかったそうです。(以下、江田秀郎の筆者あて私信に拠る)

「丈の高い色の白い優しい男而(し)かも奇言怪語其の少さき口より湧(わ)きぬ、明治三十九年三月本校を卒業するや高等商業学校入学の春の希望を夢みつヽ上京せしが道途病を得(え)青山博士の勧告により学志を廃し同年五月の半姫路に去り六月初めつかた姫路を距る三里なる播磨国印南郡伊保村中筋と云ふ曽根の松の名所に十九才を最後として三十九年十二月十一日午后八時二十五分に歿しぬ噫!今や此の肖像に梓(し・あずさの樹は立派な柩などに使われる)せらるヽの人となるされど君の手になりし記念樹はいやか上に緑り栄えつヽ校庭に面影を忍しむ」と、新宮中学同窓会報の「会報」6号(大正2年12月)が写真を掲げて追悼しています。12月20日新宮で葬儀が行われ、新宮中学職員一同も、「土塀(どべい)」(ほぼ直線に延びた横町通りは、南の果てで中世以来と言うこの「土塀」に突き当ります。葬儀への一般参列者はこの土塀まで送るのが習わし。その後、南谷の墓地に埋葬する際、水野家の墓地下を通って南谷に至るまで、駆け足で遺体を運んだのは、神倉山の天狗が遺体を奪いに来ると言われたからでした。)まで送っています。春夫が、「彼女の気の毒な兄は、終に養生かなはず、須磨の借り別荘でなくなつたので、姉とともに遺骨を持つて帰つたと、路上の立ち話に人目も憚(はばか)らず涙ながらに語つた。」(「詩文半世紀」「序章 恋と文学」)と言うのは、この折のことでしょう。

「会報」6号表紙

ちなみに、「会報」に大前十郎と並んで写真を掲げて追悼されているのは、新宮中学を首席で卒業して第1高等学校医科に進んだ崎久保与三郎です。「君は級中の秀才として前途望を属せられたる人、幼にして郷里の小学を出で明治三十四年四月廿七日本校に入るや蛍雪の勉労其効果空しからず同三十九年三月二十四日最優等を以て卒業し次で第一高等学校に入学尚進んで東京帝国医学大学に入学する不勉不撓(不屈不撓だろう・ふくつふぎょう・心がかたく困難に負けないこと)他生の模範となり天性の秀蕾(しゅうらい・すぐれたつぼみ)益々其香気(こうき・かおり、良い匂い)を含み當(まさ)に月桂の花を開かんとするの明治四十五年四月二十六日不幸病を得遂に大正二年十月一日南郡市木村松風悲しき自邸に於て眠るが如く逝かれぬ時に青春に富む二十九の十月一日」とあります。第1回生29名の内、早逝したふたりでした。

十郎の妹俊子も後に32歳の若い命を肺結核でおとすことになります。夫の死後、子どもを連れて新宮に帰ったあと、結核を患い、子ども達との同居もかなわず、いま、重要文化財になっている西村家住宅の前の大前の実家の居宅ででした。
全国的に著名であったキリスト教宣教師金森通倫(かなもりみちとも・通称つうりん。熊本バンドのひとり。後に政治界、実業界でも活躍。自民党の石破茂の曽祖父)が、新宮教会の招きでちょうど新宮に来ており、多くの町民に感化を与えていました。宣教師チャップマンの居宅に滞在した金森は、キリスト者であった俊子のために、隣の居宅を訪れて瀕死の枕辺で祈りを捧げています。俊子が息を引き取ったのは、金森が新宮を立ったその翌日でした。

それより先、大正8年9月のシベリア出兵に際し、海軍の軍人で出征していた俊子の夫の中村楠雄は、ニコラエフスク(尼港)でパルチザンの襲撃に遭い捕虜となって居り、9年5月に殺害されていました。世に「尼港事件」と言われるものです。春夫の1歳上で幼馴染であった中村楠雄は、大正4年俊子と結婚、まもなく長男が生まれています。出征後生まれた長女は、後述するように、俊子自身と同様に、父の顔を知らないまま出生したのです。出産、夫の死の衝撃などで体調を崩した俊子は、東京での海軍合同葬や新宮町内での、町始まって以来と言われる追悼祭にも出席はかなわず、病床に就いたままその生涯を終えるのです。中村楠雄の墓の隣、やや小ぶりの俊子の墓の側面には、いかに夫に献身したかの文章が刻み込まれています。海軍主計少佐楠雄の墓の裏面には、小野芳彦撰文の顕彰の辞が刻まれています。
中村家墓地を少し回ったところに大前家と中口家の墓域があり、俊子の父大前雄之助、母田鶴(たづ)、それに兄の大前十郎の墓があります。中口理兵衛は、3男であった雄之助の長兄で中口家を継ぎ、その2代後が中口光次郎、大石誠之助らとも親交を結び、雄之助の政治的遺志を継いだともみられ、薬種商の傍ら革新(改革)派として政治活動にも励んでいます。大正期に中川三蔭新宮町長の下、助役も務めています。光次郎の後添えが誠之助の妻生熊ゑいの妹ちゑで、その墓も並んでいて、大前、中口両家の結びつきの深さが感じ取れます。

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館長のつぶやき34~佐藤春夫の少年時代(34)” に対して2件のコメントがあります。

  1. まるき より:

    毎回興味深く拝読しております。写真の俊子は美しいですね。
    崎久保氏が新宮中学の第一回生と知りました。この人を追いかけて東京で一子を産み、夫の死後、崎久保家を出された人(市木出身、教師)が、後に私の祖父の後妻になりました。ずっと崎久保氏の自慢(東大医学科の特待生)をしていました。祖父は、最初の夫が亡くならなければ、あの人も幸せであったろうと、優しいことを言っておりました。

  2. NishiToshi より:

    コメントありがとうございます。
    そうだったのですか?
    ご縁があるのですね。

    (この後は、館長ブログに未公開なので何日か空くと思います)

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