館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(40)

春夫の沖野作品への違和

沖野岩三郎の「自転車」と言う作品には、春夫は否定的でした。父親宛ての書簡(推定年・大正7年と全集では採られているが、内容を勘案すれば大正6年が正しい・8月2日)で、この作品には人間が描かれていないと指摘して、批判しています。

「○昨日、沖野岩三郎氏が来ました。同氏も九月には書物を出すさうです。私にも序文を書けといふやうなことでした。同氏の自転車は作品として悪作です。しかし作者がモデルとして実在の人を描く場合に、描かれた人はどんなに書かれても不快なものに相違ありません。けれども、モデルは必ずしも作中の人物と同じものではありません。寧ろ作者その人です。私は沖野氏が実在の人物を書くといふことは異存はありませんが、沖野氏のあまり円熟したとは許(評カ)しがたい人生観の見界から、人間を書き出して居ることを面白くないと思ひます。沖野氏のなかに出てくる人間は、ほんとうの人間のやうな活き活きした点が一つもありません。その人間の真実と、霊活とが書けて居れば、たとひどんな不快な事件を書き出して居てもいいのだと私は思ひますが。・・・・(ママ)理屈は、面倒になつて来ましたからやめませう。兎に角、沖野氏の創作家としての態度は、腑に落ちません。昨日はいろいろそんな話も少しはしました。」

沖野岩三郎が大正7年9月に福永書店から刊行したのは、『煉瓦の雨』です。表題作ほか、「自転車」や、浄泉寺の住職高木顕明をモデルにした「彼の僧」、新宮中学のストライキを製材所のそれに置き換えた「山鼠の如く」など、9作を収めています。表題作は、濃尾大地震でチャペルが倒壊して「煉瓦の雨」に打たれて即死した新宮教会の恩人大石余平夫妻をモデルに、余平の弟誠之助が「大逆事件」で刑死させられ、その家族を困難な中、東京に脱出させた経緯を踏まえて、幼な子らに語る趣向です。

『煉瓦の雨』(大正7年10月福永書店刊)表紙画は富本憲吉、「欧州で食用にする「アーキチョーク」という果実の蕾です。」と説明がある。和名は「朝鮮薊(あざみ)」。

この「煉瓦の雨」に収められた跋文は、与謝野寛、晶子、西村伊作、生田長江ら11名が記していますが、春夫は「手紙を以て跋に代ふ」を、「一九一七年八月三十日」の記述入りで記しています。そこには、父宛て書簡で記されたようなあからさまな批判はやや控えられているものの、沖野文学への率直な批判も窺える内容になっています。それは、「世間での噂話の域」や「耶蘇教的の憂鬱」という言葉に仮託されている、とも言えます。

ところで、春夫の落第問題に戻ってみれば、「詩文半世紀」の中で書いています。「それでも本当の文学好きになったのは中学で二度目の三年級というのは一年落第してからであったろう。数学の点数が足りなかった」と言い、「文学書を読むということが、その時代には学校でも家庭でも一つの禁忌であったのである」と述べています。日露戦後、世の中の不安や不満が、国民の間にも浸透し、自然主義文学への関心や社会主義思想への興味も高まりつつありました。

明治39年6月学生の思想風紀の振粛についての文相の訓令が出されるのも、そんな風潮への警戒からで、新宮中学でも数種の小説や雑誌の閲覧が禁止されています。それらのことへのいささかの異議申し立てもあったのでしょうか、この年夏ころ、大石誠之助や熊野実業新聞記者徳美夜月が、「新聞雑誌縦覧所」を仲之町に設けて、若者たちに刺戟を与えています。春夫の「二少年の話」(昭和9年2月「中央公論」・『我が成長』所収)には次のようにあります。

「町に新聞雑誌縦覧所といふものが出来た。広い土間の中央に大きな素木の卓布もかけない卓子が一つとやはり白木のままの素人細工みたいな椅子が五六脚そなへつけてあつた。その卓子の上には新聞や雑誌が一面にのせてあつたが、新聞は萬朝だの二六だのそれから平民新聞だとか町ではよそであまり見かけない種類のもの、雑誌では反省社の中央公論を一般的なものとして外に家庭雑誌だとか「火鞭」だの「直言」だの「天鼓」などといふあまり名も聞かぬ週刊らしい小雑誌の外には二三のキリスト教雑誌、その外雑誌だか本だか判らぬ片々たる印刷物もあつて単行本では平民科学といふ簡単な体裁の本が五六冊と「火の柱」や「良人の自白」などの小説もあつた。」

「火の柱」「良人の自白」はキリスト教社会主義者であった木下尚江の著作で、明治37年から39年に発表され、若い読者に熱狂的に迎えられていて、まさに同時代のベストセラーでした。「わんぱく時代」では、明治40年3月の落第体験の後に「新聞雑誌縦覧所」に出入りするような記述になっていますが、新聞雑誌遊覧所の設置はそれ以前の明治39年のことで、僅か数ケ月でしたが、この年は、新宮の文化状況にとっては期を画する時になったのです。春夫らはまだその状況に名乗り出るほどの存在ではなかったものの、春夫と奥栄一にとっては、すでに「落第の予兆」は孕(はら)まれつつあったのだとも言えます。

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