館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(41)

「俳句」から「短歌」へ―熊野新宮の文化状況の変遷
文学に関心を示す若い学徒たちにとっては、春夫が「僕は短歌から出発した」と常に口にしていたということは、当時の新宮の「文化状況」を考えてみることによって、その意味を納得することができます。

この頃の新宮の短歌界の事情を知るうえで、欠かせない3つの文献があります。大正12年新宮短歌会発行の雑誌「朱光土(しゅこうど)」連載の中野緑葉の「熊野文壇の回顧」(新宮市立図書館蔵、欠号があります)、と和貝夕潮の「熊野文壇の回顧」(「熊野誌」7号・昭和37年3月)とが、まず当事者の発言として注目されます。さらに清水夕猿の息徳太郎の、夕猿資料を駆使(くし)しての「熊野浪漫派誕生―新派和歌濫觴記」があり(「熊野誌」15号特別号・昭和44年1月)、熊野短歌界の変遷を詳細に跡付けてくれています。

清水は書いていますー「明治四十年に入って、熊野歌壇は急激な変貌を遂げた。前年十一月の寛来熊により、うしほ会の人々がこぞって『新詩社』へ入社、『明星』一色に塗りつぶされたからである」と。和貝夕潮、成江醒庵(なるえせいあん)、鈴木夕雨(ゆうざめ)の3名が中心となって短歌結社「うしほ会」が、西村伊作のアトリエで結成、発会式を上げたのは、明治38年9月14日で、清水の指摘はここに繋げて考えられます。

「うしお会」結成という新しい短歌の動きに先立って、新派俳句の動きも押さえておかねばなりません。一言で言えば俳句から短歌への動きとも言えるし、もちろん両方に係わった人も多いのです。熊野の新派俳句の揺籃(ようらん)期については、清水徳太郎に「新宮町新派俳句事始 附・金曜会始末記」(「熊野誌」26号特集・昭和55年6月)の力作もあり、土山山不鳴に「熊野俳壇前記」(「熊野」昭和37年1月・「新宮市史史料編」下巻所収)があります。

もともと新派の俳句は、ホトトギス系につながる正岡子規を中心として始まったと言えます。新宮の地でも、「友猿遺稿」(清水友猿・明治期から新宮の俳句界を引っ張ったひとり)によると、新派俳句を新宮に広めた人として湯田円久(えんきゅう・号は猿叫・えんきょう)の名を上げています。明治32年7月、春夫の父の熊野病院に赴任、キリスト教新宮教会の牧師間宮玄月(まみやげんげつ)と画して、「金曜会」を立ち上げます。猿叫は、子規とも親交が深かった石井露月(ろげつ)と親しく、医師仲間でもありました。新宮で闇汁(やみじる)句会などが開かれているのも、子規らからの素早い影響です。子規と露月ら仲間たちは、同じ年、食べ物を持ち寄って句会を開き、子規は「闇汁図解(やみじるずかい)」というエッセイを、「ホトトギス」に寄せています。露月が秋田で出していた「俳星」や、中川四明(しめい)が京都で関与した「懸葵(かけあおい)」などの俳誌が、清水友猿宅に残されていたのも、熊野と各地俳句会との交流が盛んだったことの証(あかし)であると言えます。

春夫の父豊太郎(号は鏡水・梟睡・きょうすい)らも、旧派から新派に移行して金曜会に参加します。「遠松(えんしょう)」と号した浄泉寺(じょうせんじ)の住職高木顕明(たかぎけんみょう)もメンバーのひとりでした。

猿叫はほぼ1年後、田辺の地で客死、弦月は讃岐に転じましたが、明治33年3月熊野実業新聞が創刊されて、京都から子規直系の俳人大釜菰堂(おおかまこどう)が赴任してきて、京都で発刊した俳誌「種ふくべ」を新宮版として出します。しかしながら、2号で廃刊します。同じく京都から赴任してきた徳美夜月(とくみやげつ)が、明治34年2月の同新聞に「庚子の熊野俳壇一覧」を書いていて、そこには金曜会から始まって、木本町や五郷(いさと)村から古座川奥の七川(しちかわ)村などに至る19の会の総勢176名の号が記されています。今となっては、ほとんど実名は分かりません。木本町では中西鶴次郎(号は可客(かかく))が俳誌「くぢら」を発刊していて、一部は今も残っています。ちなみに「庚子(こうし・かのえのね)」の年は明治33年に当たります。

はまゆふ第17号。第17~21号の表紙が西村伊作の「海辺」の絵で飾られている。第17、18号の表紙は青、第19~21号は赤インクで印刷されています。

 「くぢら」に負けじと新宮で創刊されたのが「はまゆふ」でしたが(明治38年7月)、大野郊外、清水友猿、東旭子らが主唱したもので、第1次と言われるもの。その後復刊される第2次のものと比較して、第1次が俳句中心、第2次が短歌中心とよく言われますが、それは俳句興隆から短歌隆盛へという、時間的な経過も考え合わせたもので、どちらも総合文芸誌的な色彩も濃いものです。ただ、大野らが俳句結社吹雪会(ふぶきかい)の幹部であったことと、第2次をリードした和貝夕潮(彦太郎)が短歌に力を注いでいた事情はあります。

「明星」明治40年2月号(成江醒庵が初登場した号)の「同心語 文芸彙報(いほう)」欄に「はまゆふ」評が出ています。これは、同年1月1日付発行の「はまゆふ」17号を対象としたもの。

「◎「はまゆふ」は紀伊の新宮から出る雑誌だ。同地の「熊野実業新聞」と共に熊野の俳壇及歌壇の消息が知られる。短歌は新詩社同人鈴木、清水、成江の三人、及び夜月、泥庵、夕潮等の諸氏が近来頓(とみ)に熱心を加へて製作して居る。「実業新聞」の方では「大容堂日記」と泥庵禄亭二氏の短文が面白い。」

「大容堂」とは、徳美夜月、泥庵とは熊野実業新聞記者の村田泥庵、禄亭とは大石誠之助です。
前年11月、与謝野寛(ひろし・この頃は「鉄幹」という号を使わなくなっている)が新宮を訪れたとき、世話になったという清水友猿宛ての礼状ハガキに「禄亭泥庵二氏の風貌殊に忘れ難く」とあったのが思い合せられます。

春夫がまだ、「熊野文壇に登場する」以前のことと言えます。

 

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