館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(45)

思索の場としての徐福墓畔(一)
熊野の地で方士徐福が「徐福さん」と慕われ始めたのは何時の頃からでしょうか。とにかく「徐福の墓」があるのは、熊野新宮だけだということで、観光の目玉の一つになっていて、いまではJR新宮駅前には立派な徐福廟があります。いわゆる「徐福の墓」が作られたのは江戸時代、紀州藩祖徳川頼宣(よりのぶ)が儒学者李梅渓(りばいけい)に書かせたもので、緑色片岩で、高さ約1・4メートル、幅50センチほど。鎌倉時代頃から、徐福と熊野の関係が注目され始めたようですが、何せ中国の秦の時代は、それよりも1500年も前の話、徐福が不老不死の秘薬として求めて来たとされる天台烏薬(てんだいうやく)は、むしろ中国からわが国にもたらされたもので、それも江戸時代。司馬遷の「史記」に描かれていることなどから、徐福が秦の始皇帝の命を受けて、東方に船出したとされるのは歴史的事実でしょうが、紀元前3世紀ほどの話、全国各地(九州や丹波など)に徐福伝来の話が伝わっています。はるかロマンを秘めた話は、那智山の信仰が遠くインドからの僧裸形上人によって開かれたとされる話などとも結びつき、熊野の地が南方からの様々な文化的な伝播を有していたことを想像させるには十分です。
春夫がこの徐福墓畔に佇(たたず)んで瞑想に耽(ふけ)った頃は、墓石建立から300年近くが経過しており、墓石の周りに大きな楠が2本ほど残る淋しい一画になっていました。明治41年3月「会誌」第4号に掲載された「徐福墓畔に佇む」の文は、次のように記述しています。

「自分は何となく、只何となく淋しいと云ふ感に打たれて、逝く秋のこの夕暮をひとり徐福墓畔に佇んで居るのである。/  回顧するが人の子ひとりとてなく、唯々高い楠の二本と、石碑と、自分と、いづれも寂寞にたへぬと云ふが如く、茶褐色の枯草の上に立つて居るばかり。/ 自分は石碑の側に蹲つた。石碑は蹲つた自分の倍位ある。/ するともなく瞑目すると、先づ幼時父に伴はれて此所に来て聞いた徐福の話が心に浮ぶ。あヽ、自分はも一度あんな時に返つて見たい。不老不死、不老不死、自分は心の中で幾度ともなく叫んで見た。空想は其から其へと翼を広げて、三千里外万里長城の劈頭、自分の心は今昔の感にたへないのである。/ 自分の上楠の枝のやかましい鳥の鳴く声に、ふと我にかへると、オレンジであつた夕空は早くも江戸紫に変じて、四日ばかりの月が白く中空にかヽつて居る。かくして我等は刻一刻「死」に近づきつヽあるのではないか。」

現在の「徐福の墓」

「徐福墓畔」は、いろいろな形で春夫のその後の文学活動にも影響を及ぼしてきます。少し、上京後の春夫にも筆を伸ばして記述してみます。徐福は「父が深く」愛した人で、父は登坂の病院を閉鎖し、懸泉堂に隠居したあとも、墓畔近くに家を入手したこともあって(新宮町字徐福7172)、帰省した春夫は、ほぼ1年近く、ここと懸泉堂とを行き来していた気配があります。ここから甥の龍児が新宮中学校に通い、関東大震災後東京の女学校を引き上げてきた姪の智恵子は、ここから近くの新宮高等女学校に転校して通いました。春夫の母政代の妹竹田熊代が面倒を見たようです。
この家から新宮高等女学校に通った、佐藤智恵子は、次のように回想しています。

「・・・・大正十五年だと思う、春夫は父豊太郎の病気見舞のため帰って来たのだった。(略)その時新宮にはもう春夫の「わんぱく時代」の家はなく、知人の斡旋で新宮川奥から(というだけで委しいことは知らない)取りこわし住宅を買取り急遽徐福の墓近くにあった土地に移築して住居として間に合わせたのである。家は田舎の家らしくしっかりしたものであったが、庭は庭と云えるようなものではなく、植木を数本植え、下草をあしらい竹垣をめぐらしているだけのおそまつなものであった。/春夫はしかし、すでにその前年新婚の多美夫人と共に数ケ月ここに滞在している。/若草の妻とこもるや徐福町/の句がある。(略)この徐福墓畔に滞在中、中学時代の同級の友人奥栄一氏、及び夫人奥むめお氏も見えたような記憶があるし、岐阜や他のどこだったか文学愛好の青年が二、三訪れてきたことがある。」(「徐福墓畔の家」・「佐藤春夫記念館だより」2号)

土地台帳などによると、佐藤春夫の父・豊太郎は明治45年1月「徐福の墓」の北西30メートルにある土地を購入、広さは約190坪(約627平方メートル)。大正11年3月、春夫が相続、昭和13年2月この土地が売却されています。家がいつ建てられたかははっきりしていません。
 

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