館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(14)

・父の医学修業と新宮での開院(5)
北海道はまた、農地の開墾・開拓のほかに防備の仕事をする屯田兵(とんでんへい)として、多くの士族が移住を余儀なくされた土地でもありました。
開拓使の長官であった薩摩出身の黒田清隆は、「少年よ、大志をいだけ」(Boys, be ambitious)の格言で有名なクラークを、いわゆる「お雇い外国人」として札幌農学校の初代教頭として招聘し、クラークの指導の下、北海道の農業にアメリカ式の農業を取り入れたのです。しかし、北海道以外では、アメリカ式の農法は、あまり普及をみませんでした。黒田は開拓使の官有物を同じ薩摩出身の五代友厚の経営する関西貿易商会に格安で払い下げようとしたことが発覚、自由民権運動が大きなうねりを見せ始めていた時期で、反対運動が大きくなって、政府も国会開設を約束し、払い下げは取り下げられます。この問題も絡んで政争ともなり、大隈重信らは下野せざるをえなくなります。世に、「明治14年の政変」と言われる伊藤博文らの一種のクーデターのようなものだったのです。

屯田兵制度に続いて明治19年には植民計画のもと全道的な開発が始まりますが、特に樺太経営とロシアの南下への防備対策から石狩平野の開拓は喫緊の課題とされていました。

新天地を求めて600戸、2489名の者が、被災の難を逃れて、十津川村を後にしたのは、明治22年10月、神戸から3班に分かれ船で小樽に向かったのです。ドック原野に入植したのは翌年6月、政府の保護の下ではありましたが、未開の大地の厳しい自然との格闘は辛酸を極めたと言います。文武両道を尊んできた村人は、明治24年3月に南北に1校ずつ小学校を建て、明治28年には母村にならって高等教育の場の私立文武館を建てます。明治30年代になると北陸地方などからの移住者も増加しました。こうして「新十津川村」は発展していったのです。

豊太郎が森の意向をも受けて北海道への視察旅行に出かけるのは、明治31年夏の事であったといいますから、開拓をめぐっての国の諸問題はいちおう下火になって、新十津川建設に向かっての槌音の響きも熊野の地には伝わってきていたのでしょう。そうしてこの頃では、政府の力こぶ(補助金の支出など)も石狩川流域から十勝川流域に広がっていました。しかし十勝川はこの年と37年に大洪水に見舞われています。

「父も追々目鼻もついて来るとは言へ田舎の城下町の小病院では満足し切れない夢を持つて、こんなせせこましい井戸の底のやうな小世界の安住からは脱け出したい。と言つて、既に妻帯して、男女ふたりの幼児をかかへた身は、今更、若い者たちの争うて出かけるアメリカへ出かけることもできない。」(『わが北海道』の第4章「わが父のこと」)という春夫は、そこに「身の不遇を歎じて風雲を得たならば、もつと為す有る身であつたやうなことを愚痴つてゐた父」の姿を見、父の北海道行きは「明治の日本人相応に開拓者精神からの行動」であったと評価しています。

『わが北海道』(昭和39年6月新潮社刊)題字は春夫、春夫の急逝により、「あとがき」を井上靖が書いている。

 「わが北海道」によれば、船酔いで苦しむ母子を介抱したことから知り合ったのが河西支庁長であったことから、その便宜を受けて払い下げを受けた最初の土地は、明治33年12月「十勝国中川郡十弗原野基地七番地から東一線二十六番地に亘る二十戸分約百町歩の土地」で、その後、無償付与の許可も受けて、豊太郎は本腰で農場経営に乗り出していったのです。

「明治四十年から四十一年にかけて、わたくしの父は郷里で募集して数家族に旅費、支度金を貸与して渡道せしめた。みな小作人として開墾地に入植したのである。この一団とともに父自身も病院は一時閉鎖して他に貸しつけ、薬局生をひとり書生としてひきつれ止若村に仮寓を設けたのも四十年であつた。はじめて渡道してからちやうど十年目で、彼が北海道の土地や林と取組んでゐる間に国は満州でロシヤと戦争をしてゐたのであつた。」

豊太郎が仮寓として定めたのは、十勝国中川郡止若(やむわつか)(現・十勝郡幕別町)、十弗(とうふつ・現豊頃町)で農場を経営しました。明治38年に鉄道の根室本線が釧路・帯広間が開通、40年には旭川とも繋がっています。明治42年止若に製渋(せいじゅう・タンニン)工場も出来ています。タンニンとは、渋(しぶ)とも言われ、多くの植物に存在する水溶性化合物ですが、強い結合力があって皮類を鞣(なめ)す働きをします。動物の皮などはそのまま使うと腐敗したり、乾燥すると固くなったりしますので、その欠点を取り除く方法が「なめし」であって、「皮」が「革」になるわけです。

春夫が母親と初めて北海道に渡り、父の農場を見、父が春夫の進学先と考えた札幌の農学校を見学し、帰途東北の松島を遊覧する旅行をしたのは、明治41年8月のことで、新宮中学4年生の夏季休暇を利用してのものでした。

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