館長のつぶやき~佐藤春夫の少年時代(5)

・父親の系譜―「懸泉堂(けんせんどう)」(1)
春夫の父豊太郎が書いた「懐旧」という作品は、「蕙雨山房主人稿」と表題に記され、春夫の手によって2度刊行されています。最初は昭和8年、豊太郎の古稀の賀に際してのもので、活版で160部が私版され、関係者に配布されました。受け取ったひとりが春夫の師永井荷風で、賞賛する読後感を春夫宛てに送ってきます。2度目は昭和17年、父の中陰明けに知友に配られたもので、亡父の自筆清書稿の印影本として、父の手書きを活かし、その序に当たる部分に、荷風の自筆書簡を差し挟む体裁を取っています。娘保子(春夫の姉)の求めに応じなどと注記もありますが、刊本に先立って一部は、同人誌「脈」(正木不如丘・ふじょきゅう・編)大正13年12月号などに掲載されたようです。
さて、「懐旧」は豊太郎の5歳の時の悲しいつらい記憶から始まっています。
1862(文久2)年生まれの豊太郎は、父親の顔を知らないままこの世に誕生しました。誕生する約3ケ月前、父はもうこの世の人ではなかったからです。享年28歳でした。20歳で後家となった母は、やがて豊太郎を残して他家に嫁いでゆき、豊太郎はしばらく里子に出されています。だから「懐旧」の内容は、さながら父母恋しの記述で溢れていると言えます。母とも別れざるを得なかった豊太郎にとって、父母恋しの傷跡は、終生ついてまわったようです。


下里懸泉堂(2014年撮影)

 

豊太郎が生まれた「懸泉堂(けんせんどう)」の家(下里村大字八尺鏡野(やたがの)678)は、山側に滝が落ちていたことから名づけられたと言われ、土地の者たちは「ケンセ」と呼称していました。江戸時代から代々の医家で、祖父椿山(道敏・百樹、以後代々百樹を名乗る)は医業とともに家塾も営みながら、地域の興産にも貢献しました。廃池を修復して田地への水路を確保したり、養蚕を奨励したり、種痘も実施しました。幕末、天然痘が全国的に流行し、天保時代、熊野の地でも流行、ジェンナーが牛痘ウィルスによる免疫法を発見、オランダ人によって日本にも伝えられます。椿山は京都でもその方法が伝授されると聴いて出かけています。天然痘の予防ワクチンの作製では、白浜出身の小山肆成が著名で、私財をなげうって研究用の牛を買い集めたと言われていますが、椿山と同じ時期だけに、情報交換などがなされていたのかもしれません。

玄関に掲げてある看板。(2019年撮影)

椿山は同じ地の伊達(だて)家の「峨洋楼(がようろう)」で学んでから独立しましたが、両塾は江戸期から明治期にかけて多くの逸材を輩出し、下里は学問の地としても名を馳せました。椿山は、春夫をして「懸泉堂文学の祖」と言わせた国学者中村維順の娘よね(米子)を妻として迎え、夫妻で和歌の贈答をするなど、夫婦して子弟も教え、「懸泉堂歌集」などが編まれています。春夫が谷崎潤一郎の夫人であった千代と結婚した折、千代に一時「米子」を名乗らせて、その教養にあやかろうとさせた時期があります。
中村維順も晩年青木勇蔵と改名して紀州藩に仕え、京都や江戸で在勤したと言いますが、京都では国学者・歌人として著名な富士谷御杖(ふじたにみつえ)、江戸では南画家谷文晁(たにぶんちょう)とも交流するほどの教養人でした。絵本小説「峯の吹雪」5冊本を書いたりもしています。春夫が「懸泉堂文学の祖」と位置付けるのも宜(むべ)なるかな、と納得させられます。
豊太郎の回想によれば、稽古場という1棟があり、14、5歳を頭に7、8歳までの子供が50人ばかり、別に母屋の一室では同じ歳頃の女子が14、5人学んでおり、さらに青年も4、5人、学んでいたと言うことです。豊太郎も7歳の春からここで素読などを学び始めたと言います。「懸泉堂塾則」には、日常生活における細かいしつけに係わることと共に、「貴賤貧富親疎之差別を論ぜず」とあって、「朋友は、相互に世話をし合い睦まじくすること」を求め、さらに上席の者は年下の者への気配りもするように求めていたりします。明治5年の学制発布により塾は廃止となりましたが、父母たちの懇請によって明治9年高芝小学校が開校するまで続けられ、半世紀余の歴史を刻み続けたのです。

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この度、佐藤春夫記念館館長・辻本先生の「館長のつぶやき」を熊エプに転載させていただくことになりました。普段から記念館ホームページをご覧の方にはお馴染みの記事ですが、そうでない方や見逃した方のためにここで、紹介させていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします。
(熊エプ編集長・西 敏)

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