館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(24)

・第五回内国博覧会をめぐって
ここで、春夫の「日記」の記述に戻ってみれば、和歌山の高等女学校に通っていた姉保子が3月27日に帰省してきて、三輪崎港まで迎えに行っています。3時頃三輪崎に着きましたがなかなか船は入って来ず、8時ころ入港(当時は港に着岸するのではなく、艀(はしけ)での往来です)、自宅に帰りついた時は、10時になろうとしていました。春夫が新宮中学へ入学した後の4月20日に姉は和歌山へ帰っています。この時はまだ新宮に女学校はなくて、富豪尾崎作次郎の還暦の寄付によって町立新宮高等女学校が開校するのは、明治39年4月のことです。
ちょうど1年前の明治36年3月、春夫がまだ高等小学校の時、4歳上の和歌山に居た姉を誘って、大阪での第5回内国勧業博覧会を見学しています。3月1日から7月末日までの期間でしたから、すぐに見学に訪れたことになります。今の天王寺公園から新世界までを含む広大な会場で、出品27万6千点、530万人が入場したと言いますから、これまでの東京や京都で開かれた4回の開催とは桁が違っていました。もともと明治10年代に、明治政府の「富国強兵・殖産興業」政策の手段として始まった内国博覧会でしたが、第5回ではエレベーター付き高層建築などに注目が集まり、まだ一般家庭に電灯さえ普及していない時期だけに、夜間のイルミネーションは殊の外、人々の目を驚かせました。自動車・カメラ・タイプライター・冷蔵庫などが初めて公開されたのもこの博覧会であったと言います。

「大阪内国博覧会会場正面」(明治36年風俗画報)。「明治大正図誌・大阪」より転載

春夫は病院の事務をしていた人に連れられて訪れたのでした。この時、第2会場として水族館が設けられていた堺にも立ち寄り、後に深いかかわりをもつ与謝野晶子の生家なども訪れています。
この博覧会では、新宮の久保昌雄(まさお)が出品した「雨中の瀞峡」の写真が特選になっています。これが、瀞峡の風景を一躍有名にしたと言っても過言ではありません。三輪ケ崎は万葉集に詠(よ)まれ、那智の滝は清少納言の「枕草子」に述べられているのに比べて、瀞峡はまったく知られていませんでした。幕末の文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)が遊んだ記録が幾つか残っているものの、広くは知られる存在ではなかったのです。熊野詣での道からは外れていたことも一因でしょうか。
この時、新宮中学の2、3年生、つまり第1回生、2回生、110余名も見学しています。5月7日から13日の大坂方面への修学旅行においてで、9日に見学しています。そこで、新中生らは、引率教諭のひとり、美術の赤松麟作(あかまつりんさく)の150号という大きな絵にも出会います。明治34年第6回白馬会に出品して白馬賞を受賞した作品です。代表作となる「夜汽車」で、戦後の教科書などにも掲載されました。この出品作が7月には褒章(ほうしょう)を受賞しています。こんなに偉い先生だったのか、生徒たちはあらためて感心したはずです。赤松麟作は新宮中学には1年余しか在籍しませんでしたが、やがて有名な画家になって、関西画壇を牽引(けんいん)してゆきます。春夫が入学した年に少しは重なります。後年赤松は何度か熊野の地に遊び、串本の絵なども残しています。

赤松麟作の「夜汽車」、現在東京芸術大学所蔵。「明治大正図誌・東海道」より転載

先ほどの久保昌雄は、明治33年に「熊野百景」という上下2巻の立派な写真帖を刊行して、宮中にも献本されたと言われています。当時、写真器材一つ持ち運ぶのにも、大変だったはずです。交通の便もずっと悪い、そんな中、串本から今の熊野市、さらに熊野川を遡(さかのぼ)った川丈筋(かわたけすじ)と(川丈筋は、まだ道路も通っていない)実に数々の貴重な風景写真を残しているのです。串本の、それまで立岩(たていわ)と言われていた岩を「橋杭岩(はしぐいいわ)」と名付けたり、木ノ本の「獅子岩(ししいわ)」なども、久保の命名だと言われています。「熊野百景」という写真集は、息子の久保嘉弘(よしひろ)に受け継がれて、何回か改定を加えられています。嘉弘は新宮中学の5回生で、春夫と同級で幼馴染(おさななじ)み、だから春夫も少年時代から写真に興味を持っていたわけです。
幕末には、写真を撮(と)ることが、魂まで抜き取られると、本気で考えられていた時代から、まだ30年ほどしか経(た)っていません。ちなみに明治末、新宮には最低4軒の写真屋があったことが確認できます。先程の久保写真館、田中写真館、熊野写真館それに東陽軒です。現在のように写真を撮ると言う事がまだ一般化していなくて、ある程度裕福な家庭でないと撮れなかったと思われます。当時の写真は、写真を張り付ける台紙がしっかりしていて、保存と言う事を一番に考えて頑丈なものだったのです。その台紙に写真館の住所と名前が刷られています。これらから明治末に4軒が確認できるのです。
ところで、第5回内国勧業博覧会が一大イヴェントで、多くの熊野の人々にも関心を高めていたであろうことは、想像できるのですが、もうひとつ忘れてはならないのは、この博覧会が「人類館事件」と言われる、人権問題を引き起こしていたことです。「学術人類館」というところで、アイヌ民族、台湾高砂族、沖縄琉球人など32名の人々が、民族衣装姿で一定区域内での日常生活の営みを「展示」するという形で行われていました。沖縄県と清国とから展示の有り様について侮辱するものであると抗議が起こり問題化したのです。そこには、19世紀末から20世紀にかけて植民地主義の下、先住民らの村の生活を再現して「展示」したパリ万博をまねた趣向がうかがえ、一言で言えば日本にも「植民地主義」が根付き始めていたとも言えるのです。
博覧会見学から春夫がどのような感想を持ったのかは分かりませんが、新しい時代への好奇心、向上心が旺盛であったことは、春夫が大阪ほどの規模ではないものの、再び大掛かりな博覧会を観覧していることで分かります。それは、時が経って、春夫がようやく新宮中学を卒業し、上京の途に付いた時で、名古屋での共進会です。正式には名古屋開府300年を記念した関西の府県が連合した第10回関西府県連合共進会です。鶴舞(つるま)公園を中心として、明治43年3月16日から90日間の会期で、1日平均3万人弱、合計263万人の入場者を記録しました。名古屋が大都市として「近代化」する魁(さきがけ)となったものです。
3月31日に新宮を出立した春夫は、4月4日に東京の師の生田長江(いくたちょうこう)宅に到着していますから、その間ということになります。ちなみに春夫の後輩たち、5、4年生81名も3教諭に引率されて6月4日に新宮を出立、名古屋共進会を観覧し、京都、奈良、大阪地方への修学旅行を行っています。
春夫は、「近代化」のさまざまな装置や情報を眼に焼き付けて、東京の地での生活を始めることになるのです。

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