館長のつぶやき~28「佐藤春夫の少年時代」(28)

・春夫の新宮中学学生生活から―海外出稼ぎ子弟と通学路探索
春夫の「わんぱく時代」(昭和32年10月から翌年3月まで朝日新聞夕刊に144回に亘って連載・挿絵を和歌山市出身の画家川端龍子が担当)の「遠い学校」の章は「小学校とは違って遠い学校へ通うようになったため、僕は寒い日も早く家を出なければならない」で始まります。さらに次のように続きます。

「本町の四辻から直角に曲って横町通りを一直線に南のはじまで約一キロぐらいか、ぶっ通して苦しくない程度の速歩で二十分以上を要する距離である。僕はまだ時計を持たず友だちに借りて時間を計ったものであった。

この中学校はおかしな学校で、出稼ぎの人の子供に限ってみなだれよりも早く懐中時計を持ち、そればかりか彼等はまだ一流の学者でも新しいもの好きな二、三人しか万年筆というものを使わないころから、みな最新式の万年筆を使っていた。彼等は南筋出身の学生で、それぞれに父兄がアメリカ出稼ぎに行っていたから、子弟の中学入学祝いには申し合わせたようにワンダラ・ウォッチと万年筆とを送って来ていた。僕はうらやましくて、ある時こっそりと、万年筆や時計などは貧乏人の持つ品物だと言ったら、持っていない連中はみなよろこんだ。笑ったのはみな、僕と同様にそれがうらやましい町内の仲間なのであった。」

文中に「彼等は南筋出身の学生」とある「南筋」とは、「海岸筋」と言い換えてもいいもので、海外に、特にアメリカ、カナダ、さらにオーストラリアの真珠貝採集などの出稼ぎを多く輩出している地域で、三輪崎、太地、下里など、それに潮岬も加味されよう。

話は逸(そ)れますが、春夫の実家、下里の八尺鏡野(やたがの)にある「懸泉堂」の近くの下里小学校の校歌は、戦前の昭和8年4月に佐藤春夫によって作詩されています。曲が付けられたのは、昭和11年2月和歌山師範学校教諭鈴木富三によってですが(「百年史」・下里小学校)、戦前から唄われてきた古いもの。その4番まであるうちの2番が「奥はけはしき荒山も /  ここは姿なごやかに / 名も大丸の山と呼ぶ / その山すそのわが校舎 / うべもとみけりとのつくり」です。

多くの卒業生、年配の方を含めて、最後の一節「うべもとみけりとのつくり」の意味がわからないまま歌ってきたと、よく耳にします。春夫の詩には「うべさかしかる商人(あきうど)の町は歎かん」(「愚者の死」)などともあって、「うべ」は漢字で書けば「承諾する」などと言うときの「諾」という漢字が当たります。いかにも、なるほどと納得する、多分これはそういう意味かと思います。「ああ、納得した、この立派な作りの富んだ校舎は」というような意味ではないでしょうか。この学校の校舎は、海外に出稼ぎにゆき、その仕送りのなかから、寄付されてできたのだということを、強調しているのだ言えます。当時としては立派な木造2階建ての校舎が(昭和2年12月に新築校舎の礎づきが、多くの人々が集まって行われています)この下里の地に建てられたようです。

それより先、昭和2年4月にアメリカ人形が送られてきたり、在米の人によって郡内で初めてピアノが寄贈されたりしています(6月)。同じ年の4月には、三輪崎小学校の校舎が県下初の鉄筋コンクリート造りと言うことで話題になっていました。総工費8万円の多くは出稼ぎ者からの送金に頼って建てられたと言います。また、歌詞の大丸山とは懸泉堂の裏山のことです。
さらに下里小学校の校歌では、3番「学ぶべきもの書(ふみ)のみか」とあり、「まなこをあげて山にとへ / 耳かたむけて波にきけ」と続きます。山や海からも、つまり自然からも学べと言うことを強調しています。臨川書店版の佐藤春夫の全集は、珍しくて、校歌や社歌や市歌なども掲載されていると評判になったのですが、隣の三重県熊野市にある木本高校の校歌も佐藤春夫の作詩です(昭和30年5月作)。3番に「なぞ書(ふみ)にのみ学ばんや / 目を挙(あ)げて見よ熊野路の / 深山(みやま)に海に行く雲に / 啓示((をしへ)は尽きぬ天地((あめつち)を」になっています。ここでもやはり、書物だけじゃないよ、熊野の自然から学べ、と言っています。

(『わんぱく時代』と川端龍子の口絵。口絵原画が春夫記念館に所蔵されています。)

ところで下里の地は、多くの移民を出した地域でもあります。雄飛するという心意気が盛んな場所でもありました。カナダにある「何とかベイ」という湾の名になっている人も出ていますし、アラスカ方面に出掛けてラッコの捕獲で成功し、「ラッコ・サイベイ」という異名をとった橋本才五郎などもいます。春夫が直接橋本から聴き書きした作品が「太平洋双六―ラッコ才ベエ老人物語―」です。(昭和15年1月『公論』掲載。『びいだあ・まいやあ』所収・ラッコ捕獲はその後禁止になります)。春夫ら新宮の町の者が羨ましがった海外渡来の成功者の子弟の群は厚かったと言えます。

先ほどの中学校への春夫の通学路が遠くなったことに関して言えば、「本町の四辻から直角に曲って横町通りを一直線に南のはじまで約一キロぐらいか」との記述は、正しくはないと指摘するのは、清水徳太郎の「春夫の通学路」の文章(「熊野誌」35号・平成2年2月)です。「本町の四辻」から直角に、現在のように、「横町通り」がすぐに一直線になるのではなく、少し行って曲折するのを春夫は無視していると言うのです。そこに、春夫の深層心理を読み取っているのは面白い。清水の記述によれば、「左側、曲り角は厚い木の格子の入った尾崎銀行の建物、ここを左に曲がると横町。(略)銀行の隣にしもたやが一二軒あって福田時計店、次がまからんや帽子店、その次が洋館づくりータテに上下する二枚の細長いガラス窓、短い廂、横に板を張りつめ、白か青かのペンキで塗立てた典型的な明治の洋館仕立てーそこで、亦、道は右折し今度こそ真直ぐ南へ延びて行くのである」とあります。正確に言えば、少し行って左折し、まもなく右折して直進と言うことになります。

この洋館風の建物こそは、春夫にとっては「初恋の人」大前俊子の生家の瀬戸物店であった関係から、春夫は曲がり角の曲折を省くことによって、春夫の心の曲折をも回避したのだと、清水は推測しているのです。

清水は、昭和40年代の町の撮影写真を挿入しながら、「わんぱく時代」に描かれた通学路を3つに整理しています。先の「一直線」に加え、まず3番目として上げるのは、「道をいろいろに歩いてみたが、家の表門からおしも屋敷を仲ノ町に出て、谷王子(たんのじ)の女子高等小学校門前の井戸のわきを登って、日和山につづく丘陵を越え、町の中心にのさばっている明神山の東麓の寺などのあるさびしい山際のだらだら坂から藺(い)ノ沢(ど)の浮島の前をはじめ真南に、それから斜一直線の畑中の道を校門まで突き切るのが表通りを行く直角三角形の二辺に対してその斜辺に当る距離だし、人通りが少なくて走るのにもじゃまが少なく、樹木が多くて夏は涼しく、東南を受けて冬は温い。山道の寺の庭からは桜や木蓮などが道に散りかかったし、畑に出ると季節によって菜の花や豆の花、ソバの花などが眼を楽しませた。僕はよろこんでこの道を通うことにした」のである、という道筋です。ここには、女学生への関心を引き立てられる少年の好奇心が仄見えていると言えます。「明神山の東麓の寺などのあるさびしい山際のだらだら坂」は、現在でも残っており、寺は真宗西本願寺派の「仏照山專光寺」のことです。

順序は後先になりますが、2番目に数えているのは、「僕は書物のために、学校への通路も変えた。夏は涼しく冬暖かに、路に変化があって、路傍にも同級の女子たちがよろこび遊んでいるのが見えるあの楽しい路のかわりに、町の大通りや、通りと通りとの間を斜めに横ぎっているせせっこましい抜けうらの小路などをえらんだ新しい通路を毎日の通学の路としていた。往き帰りに本屋の前を通るためであった。」と言います。「通りと通りとの間を斜めに横ぎっているせせっこましい抜けうらの小路」は、新宮では「セコ」と呼んで、水路を塞いだどぶ板などが架けられていました。ここの「本屋」とは今出丹鶴堂、主人は「草根木皮(くさねやもくひ)」と名乗った趣味人、鏡水と号した春夫の父豊太郎とは俳句仲間、雑俳仲間には禄亭と号した大石誠之助が居り、2人の奈良県月ケ瀬への探梅紀行が残されています。

春夫はこの書店で、月20円ほどの書籍を買い込んでいたと言うことです。その中には、永井荷風の「あめりか物語」、島崎藤村の「藤村詩集」や「破戒」、森鷗外の「うた日記」などの名作もあったと春夫自身が明かしています。

この2番目の通学路こそ、やがて「新聞雑誌縦覧所」にも巡り合い、3年級での落第と言う苦い体験を経て「春夫文学」開眼のきっかけになる道筋ともなったのでした。

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